東洋史

2017/03/04

道君首名

月替わり恒例のTOP画像更新です。
画像は谷尾崎の梅です。

熊本市の西部。谷尾崎から南のあたりには大きな池があったそうです。
今でも地名に「池上」などと残っています。
この池は人工の池であり、古代、筑後守兼肥後守となった道君首名が作った「味生池」がそれであるようです。
この、道君首名。
みちのきみのおびとな、と読みます。
西暦713年、和銅6年に初代肥後国司となり、味生池など灌漑事業を興し多くの人々の暮らしを豊かにするように尽力したことが記録に残っています。

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2015/05/20

魂揺さぶる戦国の空気

先日、大宰府の国博に行ってきました。
今回の特別展のお題は、

「戦国大名 - 九州の群雄とアジアの波涛 - 」

キター、コレッ!!
戦国時代、歴史好きの心を揺さぶる激動の時代ですね。この時代に生まれなくてほんとに良かった。

私は豊後国と呼ばれた大分県出身ですが、地元の江戸時代の殿様は大友氏とのゆかりはありませんでした。
多くの大分県民はそうなんですよね。戦国時代と江戸時代で支配層に連続性がなく、さらには県内各地域が小大名統治で分割されたために一体性もなかった。
長久堂の「ザビエル」のコマーシャルと歴史の教科書のみでしか、「豊後・大友氏」のすごさを知ることが出来ませんでした。
ん?銘菓「ザビエル」は関係あるんだったか、、、?

ともかくも、自分は中国史にもまれた幼少期を過ごしており、日本戦国史との係わり合いは中二の時に見たNHKの歴史ドラマ「真田太平記」(1985)がきっかけで、その後大河ドラマの「独眼流政宗」(1987)でブレークしました。この時、高1。
小6の時に見た大河「徳川家康」は、まだ教科書レベルだった気がします。
これをきっかけに池波正太郎や山岡荘八の原作を読み、次の大河「武田信玄」(新田次郎)で原作と井上靖の「風林火山」に触れ、司馬遼太郎の「覇王の家」「関が原」あたりを読んで、戦国史にはまりました。
高校生から大学生にかけて、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で幕末に埋没、やや戦国ものを読むペースは下がったものの、大学の図書館で「大分県の歴史」(山川出版社)から始まる「**県の歴史」 山川出版社シリーズで九州各県の歴史を読んで、故郷の歴史を掘り下げてました。
大学は山梨だったので、普通に戦国時代の英雄(武田信玄)が県民の英雄、と言う状況に驚いてました。
今は熊本ですが、これまた戦国末期の英雄、加藤清正が慕われている状況と似ています。
ようやく九州に戻ったところで今回の展示、「戦国大名 - 九州の群雄とアジアの波涛 - 」は、そんな歴史好きにはたまらない催し物だったのです。

ちなみに本展示は九州国立博物館開館10周年記念特別展、という節目を飾るものとなっております。
(今年度の展示はすべてこの看板が付きそうです。)

 

前置きが長くなりました。これから内容を紹介しましょう。
三つのまとまりに分かれています。

第一章 大友宗麟の栄光と挫折

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豊後国をベースに、最盛期には九州北部(豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向)を支配下に置いた我らが大友宗麟にまつわる展示です。
栄光面では、九州一の大名に成長し、九州だけにとどまらず博多から明との交易、キリシタン大名としてローマに使節を派遣するなど、世界規模の発信をしていたことを知ることが出来ます。
ここでは本展示を通して一番の見所と言っていい、天下の名物「新田肩衝」を目の前で見ることが出来ます。

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すごいです。
この茶器(茶入れ)は大友家だけではなく、当時の著名人の手を渡って無事に後世に伝えられた点でもすごいことなのです。どういった変遷を経てきたか、大きなパネルによる説明があります。
もうひとつ、「上杉瓢箪」も見ることが出来ます。
自分はこの時点で「やばかった」です。猛烈に感激しまくってました。

そして、雷切(丸)。

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戦国時代の一番の名将は誰でしょうか。
織田信長?いえいえ。
豊臣秀吉? とんでもない。
日本一の兵(つわもの)と称された真田信繁(幸村)? ん~残念。

戦国時代で最も名将と呼ぶにふさわしいのは立花道雪(戸次鑑連)です。

そして、この刀が立花道雪所有の刀です。写真上段が世に名高き、雷切(丸)。
ここでその由来を書くまでもないでしょう。もうこの時点で自分はおなかいっぱいでした。
下段の「薙刀」も戸次鑑連の所有だったものです。

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上写真左の人物絵が鑑連。絵の中で彼の左に立てかけてある刀が雷切。

戸次鑑連(立花道雪)は、私にとって戦国一の英雄ですが、その主君の宗麟ちゃんは、ダメ男です。突っ込みどころ満載です。
前にも書いたことがあると思うのですが、彼の父親の大友義鑑が目の付け所の良い主君で、息子の宗麟義鎮が九州北部の覇者となる土台を築いたのです。
晩年というか、その生涯の最後に犯すべからざるミスをしました。
最後が残念ではありましたが、父親の残した家臣団が大友家の分裂を防ぎ、宗麟を九州の覇者に盛り上げたのです。

第二章 戦国九州を疾駆した大名たち
戦国時代に九州を舞台に活躍した男たちにまつわる展示になります。
毛利元就、島津、龍造寺、小早川隆景、鍋島直茂、黒田長政、加藤清正

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ここでのお勧めは、この16世紀から17世紀にかけて描かれた武将の姿(上写真)と、大水牛、と呼ばれる黒田長政の兜です。
正式名は「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」

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大振りに見えますが、これで軽量な兜なのだそうです。桃形(ももなり)と言う兜本体の形は、西洋兜の影響があるそうです。
(絵)心を刺激するのは
「梅に鴉図襖」

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これは小早川隆景ゆかりの品です。
今でこそ、大河ドラマのおかげで福岡は黒田家の支配地域だったことが知れ渡っていますが、それ以前、豊臣秀吉による九州遠征以降は小早川隆景によって支配されていました。
その経緯もさることながら、襖絵として非常に優雅で見事な絵です。一見の価値ありです。

第三章は九州の大名とアジアの海と題して、交易品や交易の書状(朱印状)が紹介されています。
対馬宗氏による、朝鮮国王の偽国書とか、偽印とかもあります。(写真)

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その当時宗氏が必死になって戦争(文禄・慶長の役)を回避しようとしたことがわかる資料が展示されています。
まぁ、しかし宗氏の政治力の限界、と言う気がしますけどね。

いやー素晴らしい展示でした。
九州の戦国大名に光を当てている点では、見ごたえもあり地元の英雄?を知るいい機会であったとおもいます。
惜しむらくは、内容がメジャー過ぎている点でしょうか。
天下一の「義人」と言っていい筑後の蒲池鑑盛や、九州の桶狭間と言っていい「木崎原の戦い」の紹介などに手が届いているともっと良かったです。
九州三国志、というような視点をもっと掘り下げて欲しかったです。
大友氏に偏りすぎてましたな。大分県民にとっては満足感高いです。

ぜひ戦国好きじゃない方にも見て欲しいです。
特に、
「新田肩衝」「上杉瓢箪」と「雷切」、「梅に鴉図襖」は
はお勧めです。
(なぜこれらが「国宝」でないのか、甚だ納得いきませんが。(苦笑))

会期は5月31日までとなっています。お見逃しなく。

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写真は開館10周年記念を迎えた

「九州国立博物館」

ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしました。
(*転載とかしないでね。)

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2015/01/07

温故知新 『日本発掘展』から

津波、と言う言葉。今では日本だけでなく、「Tsunami」として海外でも通じる言葉になっています。
そのきっかけは、インドネシア・スマトラ島沖地震の衝撃的な被害が大きく影響しています。
そして2011年3月11日の東日本大震災では、津波の恐怖を改めて思い知らされました。

大宰府の国博で現在開催中の特別展は「古代日本と百済の交流」ですが、同時開催で「日本発掘展」が開催されています。
これは毎年の考古学上の発掘成果を一般に知らせるべく行われているもので、2014年で20回目の節目を迎えました。
これを記念して、日本を代表する発掘成果を展示することになったそうです。
合わせて、東日本大震災の復興事業に伴い行われた発掘調査結果やその活動を紹介しています。

今回特に取り上げたいのは、ここで展示されていた高知県の石碑についてです。
東日本大震災の記録は、4年が経とうとしていますが今でもYoutubeなどで動画記録として残っており、当時の地震や津波の様子、おびえたり、気持ちが高ぶった人々の姿を伝えているのを見ることが出来ます。
最近、自分は震災当時のネット動画を見あさってました。(震災当日、海外滞在。)
遠い昔、テレビはおろか写真もない時代、記録とは口伝であり文書であり、石造物への彫文でした。
この高知の石碑もそのひとつで、安政地震(1854年12月24日)の際の津波で多くの人命が失われたたことに対する供養塔であり、かつその被害状況や得られた教訓を後世に伝える記録としての役割を持っています。
石碑には表に南無阿弥陀仏、大きく彫られてあり一見墓石のようでもあります。
その経文の横から文字が刻まれており現代語訳したものが以下のものです。

安政元甲寅年の十一月五日申の刻に大地震が発生。
それにより発生した津波が八、九度襲い、残る人家は僅(わずか)に六、七十軒で宇佐・福島合わせて死者七十余人としている。
宇佐は前が高く、後ろが低く、東西の低地より汐が入り込み、逃げ道を取り巻く故、宝永地震(宝永四年(1707)十月四日、午後二時ころ発生)で多くの人が流死したというとの遺談を信じて、取りあえず山手に逃げ登ったものは恙(つつが)なく。衣食を整えたり、慌(あわて)て船に乗った者は、津波の犠牲になった。翌日には、救援米が出されて有り難いことであった。後代の人、必ず用意なくても山の平らな傍に岩がなきところを撰(えら)び逃げよ。家財や服を拾った人は一時は得だろうが、間もなく疫病に罹かかり悉(ことごと)く死を眼の前にみたことを言い残す。
二つの地震・津波の溺死者の人の菩提を弔うために衆議してこの碑を建てた。

高知の土佐市にあるこの石碑の名は萩谷地震碑というそうです。
高知に限らず、この震災で津波にあった西日本各地にこのような津波碑、地震碑が建てられて、現存しているそうです。
この碑文にもありますが、過去の経験を忘れないことは大事なことです。
安政地震の際も150年近く前の宝永地震の津波被害の教訓が恐らく父から子、子から孫へと伝えられ、山手に逃げたものは助かった、とあります。

後代の人、必ず用意なくても山の平らな傍に岩がなきところを撰び逃げよ。
家財や服を拾った人は一時は得だろうが、間もなく疫病に罹かかり悉く死を眼の前にみたことを言い残す。

先人の遺言は貴重で、重いです。
何よりも、生き延びることが大事、と伝えているこの記録を自分たちは後世に伝える役目があるのだと感じました。

残念ながら写真はありません。
津波碑、地震碑でググると、それなりに行き当たりますので、興味のある方は調べてみてください。

特別展を見て、その後3階の常設展をさらっと見回って、特別展示の「初音の調度」を見てから帰りました。(国博で見るのは2回目。)
帰宅後、国博のサイトで紹介されていたチケットケースの存在を知りましたが、後の祭り。ゲットしそこねました。(泣
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時計を見ると昼の13時チョイ前。
大宰府に着いた時は激しく雪が降ってましたが、この頃になるとぱったりやんで、ご覧の通り。

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まったりしながら帰りました。

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2015/01/05

百済との交流 その2

2015年の年明けは、国博をもって初め、としました。
元旦明け二日、雪降る中、大宰府の国博で開催中の特別展
『古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 -』
の感想を書きます。
「ぶろぐるぽ」に参加中です。

今更ですが、百済。
くだら、と呼びます。
朝鮮半島の南西部にあった古代国家です。

Kudara
Wikipediaより

この刀(その1で紹介の七支刀)が倭国に送られた時代(4世紀)、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3国が鼎立して、いわゆる朝鮮半島の三国時代と呼ばれています。
この時代の少し前2世紀から3世紀末、隣の大陸側では劉備や曹操、諸葛亮孔明が活躍する三国時代でした。
半島では北の高句麗が強大で拡大中であり、百済と国境争いを続けている最中です。
高句麗に比べればいささか国力に劣る百済の王は周辺国と友好関係を深めてこの争いを有利にしたい気持ちがあったでしょう。
すぐ東隣には新羅がありこれと友好関係を結び、大陸(南朝、東晋)に使者を送りその従属国となり、日本には七支刀をはじめとした宝物を送って友好関係を結んでいます。
この頃倭国は、といえば、応神・仁徳帝の時代。
ま、古墳時代前期と言い換えてもいい。次の飛鳥時代が6世紀末~なので、文化的はまだまだ弥生時代(石器、土器、青銅器、鉄器)の空気が濃厚に残っていたと思われます。
一方、地続きで近くに華やかな中国文化がある百済の文化水準は倭国(当時の日本)と比べたらずっと高かったはず。
なのになぜ、海を隔てた後進国によしみを結ぶ必要があったのか。
軍事同盟に関しては、相手の文化の程度は関係ないのでしょう。
古代中国においても、漢が対匈奴戦略として西方の遊牧民族国家と外交を結んで挟撃を図り、張騫を西域に向かわせています。
倭国は後進国とはいえ、国土は百済よりも広く国力(兵力や経済力)があったので、敵にするより味方にしておいた方が国益にかなったのでしょう。
本当かうそかわかりませんが、この時代よりも前に神功皇后による半島侵略(三韓征伐)が行われています。
古代日本は当時の中華圏からすればまさに東夷、蛮夷の国だったんでしょうね
七支刀を送った近肖古王はなかなかのやり手で、近隣外交を成功させ高句麗との争いを有利に進め、なんと敵の高句麗王を戦死させています。
残念ながら、展示にはこの近肖古王のことはあまり触れられていませんが、12代後の武寧王を紹介しています。
武寧王は別名、嶋君とも呼ばれ、なんと生まれが日本近海の島。佐賀の呼子から船で20分ほどしたところにある「加唐島」らしいのです。
その紹介はパネルで紹介されています。国博研究員が実際にその島に行って調べている様子も記載。現地の言い伝えを拾っています。実地調査、フィールドワークというのは大事ですねえ。なかなか興味深いです。

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武寧王生誕地にまつわる資料

近肖古王の頃は敵国の王を討ち取るなど、百済もがんばっていたのですが、その後高句麗の好太王、(好太王碑=広開土王碑で有名)その子の長寿王の時代に押されて首都の漢城(今のソウル付近)を失い、熊津(今の韓国公州市付近)に遷都を余儀なくされ凋落の一途でした。
この武寧王は混乱していた百済に外交手腕で安定時代を築いて中興させた王として記録されています。

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武寧王の墓誌石(韓国の国宝)

武寧王の棺は日本でしか取れないコウヤマキ(高野槙)を使っていたそうです。(by Wiki)
生まれも、そしてその死に際しても、この王様は倭国(日本)とのつながりを愛してやまなかったのかもしれません。

百済、新羅、そして唐といえば。
そう、白村江の戦いですね(そうなのか?)
近肖古王、武寧王と、百済と倭国(日本)との結びつきは非常に強く、たとえ落ち目であっても頼られた倭国は百済を支援し続けました。
大和朝廷は義理堅かったんですねえ。
もしかしたら、半島における利権が絡んでいたのかもしれません。
しかし、ついに660年、百済は滅亡します。

この頃の半島情勢は、半島南東部の新羅(首都は金城、今の慶州(キョンジュ))が急激に勢いをつけてました。
北の高句麗は相次ぐ外寇(隋の煬帝による高句麗遠征)により疲弊してました。一方の隋は無理な外征などが祟って滅亡。代わって唐が建国。
高句麗では新羅勃興の危機感と、大陸側では唐が隋を倒して国を統一したことへの危機感があり、百済と同盟。
新羅は唐の傘下に入って対抗。
660年、唐と新羅連合軍は百済を滅亡させます。
その3年後、百済の遺臣と倭国の連合軍が百済復興を目指して進軍、白村江で唐・新羅連合軍とぶつかります。
そのときの水軍の配置図が漫画絵で示されていますが、典型的な包囲殲滅戦。

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また日本書紀によると倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」というもの。をいをい。
つい60年位前の日本の軍人さんが「神風がー」とか「神国が負けるはずねー」とか叫んでいたのと変わらない。
昔から進歩のなかった日本の軍人さんでした。

白村江の戦いで、「負けるべくして」大敗を喫した倭国は大いに狼狽、慌てふためきます。
そして、急ピッチで西国に防衛拠点を築かせるのです。
それが、水城であり、大野城であり、鞠智城なんですね。

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大野城のコーナー

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大宰府政庁が製造を管理した鬼瓦。政庁跡、大野城跡、水城跡で発見されたものが展示されている。全部同じ様なデザイン。

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水城のジオラマ

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当時の兵士イメージ

この頃の倭国には金(経済力)があったのか、中央集権の強さが際立っていたのか。
どれをとっても大変な大事業ですが、短期間のうちにこれらを準備しました。
その効果は不明ですが、有り余るパワーがあったことだけは確かのようです。
百済が、後進国とはいえ倭国とよしみを結んだほうがいい、と判断したのもうなずけます。
敵国唐の最終目標が高句麗であったことや、それに従った新羅も海を渡って倭国に侵攻するという戦略は微塵もなかったことについて、これらの情報を当時の倭国が収集したかどうか。そんな風に見えませぬ。
わかっていれば無駄な事業をする必要なかったのにねえ。ポーズは必要だったのかもしれませんが。
まぁ、おかげで後世の人にはそれらを掘り返す楽しみが増えるのでいいのですけどね。
2014年は水城が、2015年は大野城、基肄城が出来て1350年だそうです。ってことは出来たのはそれぞれ664年と665年。
白村江敗戦後1~2年でこれらの巨大構築物を作ったのかよ!どれだけあわててたか、想像に余りある。
残念ながら、兵站基地として築かれた我らが鞠智城は築城年が未だ不明です。

4世紀の近肖古王が七支刀、七子鏡を倭国に送ってから続いた百済との交流(イベント)がパネルにまとめられています。

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百済と古代日本の文化的なつながりは濃いものでした。
二つの国に共通するのは仏教を厚く保護していたこと。
展示には百済と倭国の仏舎利容器があります。細工の違いはありますが形式は同じです。
百済のものは韓国宝物で、倭国のものは法隆寺五重塔の地下から見つかったものの再現文化財です。

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韓国の国宝、仏舎利容器。初の国外展示です。シンプルな美しさがあります。

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法隆寺五重塔の地下からみつかった仏舎利容器の再現品。細かな細工が美しいです。
倭国の技術もここまで来たか、というくらいの進歩を感じます。これも百済との交流があったらばこそ、なのです。

また、日本最古の寺院といわれる飛鳥寺(法興寺)は近年見つかった百済の時代に建てられた王興寺という寺のデザイン(配置)が似ているそうです。
百済から技術者を呼んで建てられた、という記録もあるので同じ技術者、もしくは弟子、が飛鳥寺をデザインしたのは想像に難くないですね。

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展示では石炭石に金を巻いたネックレスが印象的でした。
石炭も時代にっては宝石と同じ価値があったのでしょうか。構造が違いますがダイヤモンドと元素は一緒。
でも、この時代の人がそれを知っていたとは思えませぬ。
もしくは、魔力とか謎の力が宿っていると信じられていたのでしょうか。

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仏教は仏像とともに伝播したともいわれます。
特に朝鮮半島では菩薩半跏像が流行になっていたようです。日本にもその影響があります。

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この菩薩半跏像は美しいですねえ。
三国時代(7世紀)百済のもの、と言う表示がありました。国立博物館所蔵になってます。調べてみると、小倉コレクション、なるものあり。
・・・いずれは韓国、朝鮮半島に返還すべきものなんでしょうねえ。
昔50円切手にあった仏像が、菩薩半跏像でした。(奈良、中宮寺のもの)

百済関連の展示はここまでです。
いやー、数は少なかったけど見ごたえ十分。古代の日本を考える上でとても貴重な資料、文物でした。
鞠智城はうちの近所でよく通って憩いにしている場所ですし、大宰府にしても然り、です。
また、百済という国にはなぜか不思議と昔っから思い入れがあります。
故国の、古代日本に寄せる想いに同情しているのか、その盛衰にもののあわれを誘うのか、我ながら良くわかりません。
今回の展示は自分にとっては、どストライクな内容でした。
良い年の始まりを迎えることができました。
七支刀が展示されたら、そのとき日本に居れば、もう一回見に行こうかな。

実は特別展はここでおしまいではありません。
同時開催で、

『発掘された日本列島展20周年記念 日本発掘展 - 発掘された日本列島2014 - 』

と言うものがあります。展示の会場は百済展の隣。すぐ続きの間でやっています。
これに関して、非常に心に刺さった展示があったので、項を変えてご紹介します。

..。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

写真は

「九州国立博物館」

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特別展『古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 -』
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ぜひ、お見逃しなく。

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2015/01/04

百済との交流 その1

2015年も、既に4日目ですよ。明日からは通常生活様式が待ってますねえ。
自分は間に出勤がありましたが、9連休と言う人は結構多いのではないですかね。
もちろん、その大勢が休日にかかわらず働いている方もたくさん居ると思います。昨年の自分がそうでした。。。
働いている人も、思いっきり休んだ人も、今年は良い年にしたいですね。

明けて2日目に、自分は大宰府の国博に行ってきました。
国博はちょっと久しぶりです。なんだかんだあって、昨年は一回も行ってない気がする。たぶん。
一昨年の11月に、特別展『御三家筆頭 尾張 徳川家の至宝』に行って以来じゃまいか?

さて今回の動機は、国博が正月元日からオープンしていることを今まで知らず驚き、その1月1日から始まる特別展が「百済」関連だったので非常に興味をそそられたのでした。
正月3ヶ日中に博物館に行くって、なかなかすごいでしょ?(何が?)
目玉(らしい)の、奈良の神社に奉納されている『七支刀』の展示は1月15日からなので、その日以降でも良かったんですが、正月3が日中に博物館に行く、っていうところに(自分的には)ポイントがあったので、行きました。
ちなみに、元旦に行けばもっと良かったんでしょうが、大宰府八幡宮の混雑を想像して避けました。自分は自分の運転する車で行きたかったのです。

家を出たのが朝8時。予想としては9時ちょいすぎに博物館の駐車場につく予定でした。
九州自動車道の大宰府ICまではすごく順調。しかし!インターを出ていつもの大宰府政庁跡前の通りに出ると、ザ・渋滞。
大宰府は正月2日目でも混むんですな。
そして、雪。
9時ちょい過ぎには政庁跡前を通り過ぎましたが、この時間帯の大宰府はけっこう大き目の雪が降ってました。
「これ、やばいんかなあ」と不安がよぎりますが、天気予報では気温は次第に上がってくる、とあったので大丈夫だろうとたかをくくりました。
渋滞も10分くらいで通過でき、国博駐車場についたのは9時40分くらい。国博の開場は9時30分からなので、少し遅れましたがまぁ良しです。

駐車場での様子はこんなん。

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開場時刻直後なので、駐車場はまばらですね。もしくは、こんな日に来る人は滅多に居ないのか。
雪が降るなか、傘を片手に国博へ向かいます。
雪の中の国博もなかなか無い経験かも。

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お正月と言うのに、またこんな雪の中ご苦労様です。。。
駐車場もまばらでしたが、館内も人の姿はまばら。これって結構おいしいかも。人が多いと展示をゆっくり見れませんからねえ。
チケットを買って、いざ2階へ。
入ってすぐにあるのが、これです。

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残念ながら本物ではありません。再現文化財というのでしょうか。
この刀について、自分は結構最近まで誤解をしていて、この形状の刀は「草薙の剣」と思っていたんです。今回、その誤解を訂正しました。
七支刀のこの奇妙な形状はどうやって作るのでしょう。この再現刀は鋳型から作っているそうです。鋳造刀ということですね。(そんな言葉があるかどうか知りませんが)
普通日本の刀(普通刃物と言えば)と言えば、トンテンカンと金槌でたたいて鍛える、鍛造刀(そんな言葉があるかどうか知りませんが)が普通です。
もちろん古代にはまだそんな技術はなかったでしょう。この刀は百済から倭国(日本)に送られたものではないか、と言われています。
日本書紀には、「百済の王が七枝刀」(ななつさやのたち)と七子鏡や他の宝物を倭国に送り友好を願った」という記述があります。
この七枝刀が七支刀、と言うわけです。
日本書紀の記述は神功皇后の時代、となっているので4世紀(西暦300年台後半)のものになります。今からおよそ1700年から1600年前のもの。
Wiki見たらこの復元刀、河内国平作、らしい。
刀と一緒に送られた鏡は今どこにあるのかなぞですが、こういうものであったろうというのが展示されています。日本の古墳から発掘されたもの、韓国の国宝の鏡も展示されていました。

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展示されている側が鏡の裏側になるのですが、7つのボッチがあります。だから七子鏡ではないか?というのです。
この7つのボッチを均等にデザインする技術はどこから来るのでしょうかねえ。偶数だと簡単ですが奇数は難しいですよね。
ちなみに、これらの鏡は正式(考古学的)には、獣帯鏡と呼ばれています。獣の文様があるためです。
写真のものは韓国の国宝です。
現在は復元刀が展示されていますが1月15日~2月15日の1ヶ月間は奈良石上神宮の本物(国宝)が展示される予定です。

(その2につづく)

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

写真は

「九州国立博物館」

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2013/12/28

エレクトロン貨

昨日の記事

ヒッタイトとリディア

の続きです。

さて、リディア王国。
アナトリアの西部に興ったこの国はやや数奇な歴史があります。
この王国の2番目の王朝の始祖はギリシャ神話で有名なヘラクレスの血筋(ヘラクレス家)と言われています。
ヘラクレスは、ゼウスの浮気でできちゃった子供。
神と人との間に生まれているので最初は神の地位にはありませんでしたが、その後の活躍と一旦迎えた死によって神の位を与えられます。(加えて空に上げられ星座になります)
そんなヘラクレスの血筋という、何とも眉唾な系譜も持ち出してきたリディア王国の第二王朝。
このためこの王朝は「ヘラクレス朝」と呼ばれます。
このヘラクレス朝が次のメルムナス朝に変わる際の経緯(ヘロドトスが伝える)が結構面白いのですが、別な機会に書きます。

王国の版図はアナトリアの大部分ですがその中心地は以前のヒッタイトが中心を置いた~ではなく、アナトリア西部(沿岸部含む)。
王国の成り立ちも、おそらく海の民の影響が強かったんじゃないでしょうかね。
沿岸部をもち、メソポタミアとギリシャの中間に位置し、交易が盛んになっていったのでしょう。
また領内に金鉱山をもっていたことも大きい要因だったのだと思われます。
これらの事が重なり、なんとこの地で世界初の貨幣が生まれます。
「エレクトロン貨」と呼ばれるこの貨幣(金貨)がどの程度流通したのか分かりませんが、それまで物々交換、もしくは代替貴金属(この場合基準は重さ)でしか商売できなかったものが、鋳造貨幣という媒介を通じて数字とともに手軽にできるようになったのです。
このような革命的な出来事が、アナトリア半島のある王国で起こったのでした。
貨幣はその後、時代を経て紙幣と言う形を持つようになります。これは中国の宋の時代に「交子」と呼ばれる紙幣が最初と言われています。
これはいわば、政府認定の預かり信用手形から発展したものです。

さて、最近ではビットコインなる摩訶不思議な貨幣?がありますね。


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2013/12/27

ヒッタイトとリディア

昔のことではあるけれど、
トルコへの旅行を考えてた時期があってこんな記事を作っていました。

トルコの歴史(おぼえがき)前編
http://pon-blue.way-nifty.com/sora/2007/07/post_036f.html

結局この時はトルコには行かず、翌年にペルーへ行きました。
全くの反対方向ですなあ。

さて、上の記事にヒッタイトの事を書いています。
トルコ(アナトリア半島)で大いに勢力を持った最古の集団は、「ヒッタイト人」ということになっています。
それ以前にはハッティと呼ばれる人々がアナトリアに住んでいました。
紀元前18世紀の王、ピトハナが最古のヒッタイト人の王であり、断絶はあるもののそこからヒッタイト王国へとつながる足がかりを築いた人です。

さてこのヒッタイト人。
文字を持ち(メソポタミアのシュメール起源)、何よりもこの民族を特徴づける「鉄」を持っていたことが大きな特徴。
ヒッタイトといえば鉄です。

鉄はそれまでの武具で主流だった青銅よりも硬く強かったので、これを持つヒッタイトは周辺を武力で制圧し勢力範囲を広げていきました。
最盛期にはエジプト王国と境を接し争っています。
しかし盛者必衰の理あり。

シリアの地を巡るエジプトとの争いや、メソポタミア北方の強国アッシリアの台頭により勢いを失い、紀元前1200年のカタストロフと呼ばれる混乱の中でヒッタイト王国は歴史から姿を消します。

さて、このアナトリアと東のメソポタミアの間には交易関係があり、とくにアッシリア商人が幅を利かせていました。
文明の進み方や深まり方で言えば、アナトリア地方は辺境・地方に過ぎず、この付近のいかした文明を持っている先端の地域はメソポタミア付近かエジプト付近であったろうと思います。
そう見ると、ヒッタイトの人々は野蛮で粗野なイメージに見えてきます。
しかし、です。
この滅んだヒッタイト王国の後には、地域や都市といった狭い領域に勢力を持つ小王国が分立する状態になるのですが、その中にアナトリア半島西部に起こったリディア王国があります。

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2013/11/09

今日うぐいすの 初音きかせよ

真っ赤なP+の慣らし運転を兼ねて、九州国立博物館(以下、国博〈コクハク〉)に行きました。
今、「尾張徳川家」のおたから、展示中です。
正式には

特別展『御三家筆頭 尾張 徳川家の至宝』

です。

001
実はあまり興味なかったんですが、「こいつだけは見ておかないと」と言うものがありました。
それは、

「初音の調度」

「源氏物語絵巻」

今までにも何度か紹介していますが、源氏物語とその絵巻には関心がありまして、諏訪湖のサンリツ服部美術館とか、国博でも以前展示があったものを見に来ています。

美術館に行ってきました(2007年7月8日)

GWの最中(2008年5月4日)

国宝云々よりも、
源氏物語の内容と、その絵巻の中身(絵そのもの、デザインや全体から受ける雰囲気、つーかオーラ?)
に個人的に感じる物、受ける物があるんです。

今回、その絵巻そのものの展示があります。(なんせ、現存する絵巻は尾張徳川美術館と東京五島美術館にしかない)
なんでも尾張徳川家に嫁入りした3代将軍家光の娘(長女・千代姫)の嫁入り時の宝だったとか。
また、同じく嫁入り道具だった「初音の調度」も源氏物語にゆかりのあるもの。
自分の祖母の名前が「初音」さんだったから、というのは関係あるんでしょうかねえ。
ただ、その存在を知ったのは祖母名つながりではあります。

11月頭の3連休の中日に行ったんですが、あいにくの雨模様。
車で行ったんですが、なんと駐車場が満車で1時間待ちと言われました。
時間がちょうどお昼頃だったので一旦引き返して、道沿いにある「小麦冶 筑紫野原店」でお昼ごはん。
小エビ天うどん ¥330

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うまかったです。九州のうどんは讃岐のようなコシはないけど、汁も含めてうまいよねえ。
ちなみに「かけうどん」は170円。
食べた後にコンビニでビニ傘を買っていくとまだ1時間待ち。並んで順番が来るのを待ちました。

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下の駐車場に止められたのは40分後くらい。
雨の降る中、てくてくと博物館に向かいました。
雨模様ではありましたが、お客さんいっぱいです。

いよいよ尾張徳川家のお宝です。
いきなり正面に水牛角の兜で威圧している甲冑がありました。
狸ジジイこと、家康の鎧兜だったようで、尾張家初代が拝領したもの。
兜や鎧のほぼ全面に熊の毛が植毛されているので、その名も「熊毛植黒糸威具足」
水牛角の兜はさすがに家康の老体には無理があったんじゃないかなーって思いますが、威圧感はばっちりです。

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最初のフロアには、この鎧兜の他、数多くの刀剣が飾ってあります。
一番印象に残ったのは「村正」
そのおどろおどろしい刃の模様は印象的です。
世に言う「妖刀」とはこのことか、と思わなくもないですが、妖刀伝説は後世の創作のようです。
現に、徳川家の宝として残され、自分の目の前に「村正」がある、と言うことだけでも「妖刀」が作り話である証拠でしょう。
しかしこの模様を見たら、えもいわれぬ怪しさを感じます。

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さて、次のフロアにはこれまた予想外の名物・逸品たちが待っていました。
何も言いません。いろいろ展示されてますが、

古瀬戸肩衝茶入 銘 横田
白天目
油滴天目
織部茶碗

これらを見てもらえれば、わかります。この4品が私のお勧めです。
織部茶碗は今まで見たことがなかったので、非常にいい機会でした。
織部の自由さと味わい深さがなんともいえません・・・
それと、

古銅砧形花生 銘 杵のをれ

という花入れ、まあ花瓶ですな。があります。
この名物の歴史的な経緯、というか持ち主の変遷が面白いです。

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その後はザーッと流して、源氏物語の場所へ。
あ、違った。「至宝」のフロアへ。
ついに「初音の調度」の実物を見ました。

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が、
実は正直、(こんなものなのかー)と内心思っちゃいました。
「葦手書き」と言われる、絵の中のパーツに文字をしのばせる技法を知るいい機会ではありました。
金ぴかの道具って、いまいち気持ちが乗らないんですよねえ(理由はそれだけか?って気もしないではありませんが)
国宝なので、まぁ気が向いたら見てください(え?)
蒔絵史上の最高傑作だそうです。確かに美しいです。

おまけに残念なことが。
自分が行った11月3日は、源氏物語絵巻の本物は展示されておらず、模写本でした。うがー

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10月12日〜10月27日の期間に
源氏物語絵巻 横笛
が展示されていたようで、自分が行った日にはこの絵の模写本がありました。
11月12日〜11月24日の期間には
源氏物語絵巻 竹河(二)
が展示されるようです。絵巻中最も華やか、と言われる場面です。ぜひお見逃しなく(涙☆

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狩野探幽の屏風絵「四季花鳥図屏風」↓

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いいですなー探幽。
雪舟のような雰囲気があります。まさに本当の印象派。
(洋の印象派は19世紀中ごろ。一方雪舟や探幽は16~17世紀。
洋の印象派は19世紀のパリ万博の日本画が発端ではないか、とも言われてます。
だから印象派の画風は日本人の価値観に受け入れやすいでしょうね)
ちなみに、入り口付近にある狸じじい(家康)の絵。あれも探幽作です。

いろいろ、「とほほ」な面もありましたが、総括すると、

来て見て良かった徳川お宝☆

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

写真は

「九州国立博物館」

ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしました。
(*転載とかしないでね。)

特別展『御三家筆頭 尾張 徳川家の至宝』
九州国立博物館で2013年12月8日まで絶賛開催中!
ぜひ、お見逃しなく。

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2013/08/26

伍子胥から范レイ~呉越同舟、臥薪嘗胆~

有陰徳者、天報以福

楚の孫叔敖からの~ヒツの戦い の続きです。

 

范レイのレイの字はチョー難しいので、気になる方はWikiでも見てください。
さて、楚の伍子胥が呉の国に亡命した、あたりまで書きました。
韓国出張の際に「范レイ」という題名の本を読んだので、そこまで持っていこうかなと思いました。

さて、伍子胥。
彼は父や兄を殺し、楚の国でも名家だった伍家を取り潰した楚の国王平王と、王にそそのかした奸臣費無忌に対し、恨み骨髄です。
「このうらみ、はらさでおくべきか」と、魔太郎のようにつぶやいたかどうかは知りません。
南の隣国呉の国に亡命します。

呉の国は今の中国蘇州付近を領土としていました。
蘇州、いいですねえ。長江の河口付近の南側に位置するこの都市は、水運の町でもあり、東洋のヴェニス、なんて呼ばれたりしますね。

蘇州夜曲、という歌がありますが自分のイメージもこんな感じです。やっぱ李香蘭ですよ。
この曲を聴きながら、蘇州の古い町の中で運河の水面を見つつ、杯を傾ける・・・

 

その呉の国はこの時代では著しく後進国といっていいくらいの国でした。
領土も、蘇州付近を領するだけの小国です。
一方、楚は今の湖北省、湖南省にまたがる広大な領土を持ち、ちょっと前の王の代では中央で華々しく先進国のリーダーだった北の大国晋を戦で破り、大陸の覇者となった国です。
湖北省、湖南省にまたがる地域、だとわかりにくいかもしれませんが、ざっくり言えば黄河と長江の間の地域で、西は今の四川省の手前まで。東はもちろん海岸まで。(すごくざっくりです)

何で伍子胥はそんな国に亡命したんでしょう。
亡命して彼が仕えたのは公子光。
公子、とは王子のことですので、すなわち当時呉王だった僚の息子の光王子に仕えました。
伍子胥は公子光を支え、やがて彼を呉王にします。
新たな呉王の側近補佐となった伍子胥は後世、孫子と呼ばれるようになる孫武の登用を呉王に進め、呉国の国力増進に勤めます。
小国だった呉の国力でも、楚に太刀打ちできるような状況を待ち、作り出すのが孫武の兵法。
彼の采配により呉軍は楚軍に連戦連勝し、やがて楚の都郢(エイ)を陥落させます。
この時、実は伍子胥の恨みの対象だった楚王の平王はとっくの昔に死んでいました。
しかし、伍子胥は平王の墓を暴き、おそらく朽ち果てていた平王の死体に鞭をうって恨みを晴らす、という驚くべき行為に出ます。
死者に鞭打つ行為、とはまさにこのことですね。

実はこの頃、呉のさらに南の越の国に不穏な動きがありました。
長江の南に銭塘江という河があります。
毎年、8月の中ごろに逆流する、海嘯、という現象が起こることで有名ですね。
この銭塘江の河口付近の南岸に越の国がありました。
首都は会稽。今で言えば紹興市。紹興酒で有名な都市です。

呉と越。
隣り合った後進国同士の二国ですが、中が悪く、戦を繰り返していました。
呉越同舟、という言葉があります。
いがみ合ってても同じ目的のためなら協力することを言います。
単に、仲が悪い人たちが同じ場所に居合わせることも、呉越同舟って言い表しますね。

越の国は呉に比べてもさらに後進国。むしろ文化の及ばない野蛮な国とすら見られているような地域の国でした。
そんな国に卓越した政治家が二人、いや三人いたのです。

一人は計然。彼は范レイの師と言われる人ですが、司馬遷の史記にある貨殖列伝に名前が挙がるように、この時代の最先端を行く経済家でした。
野蛮な国といわれた越の国に、超一流の経済家が居るというのもすごいですな。

一人は文種(ぶんしょう)。かれは范レイと並び称される政治家です。

そしてもう一人が、范レイ。この時代の、越の国でのポジションは軍師というようなところでしょう。

私が読んだ本では、范レイが越の国に来る前は孫武の弟子であった、という設定があります。
(もちろん、越の国で頭角を現す前の范レイのことは不明である、というのが現在までの事実です)
時代は春秋時代の終わりごろ。
この時代のもっとも最先端を行く政治家、兵法家が3人も、このもっとも野蛮な国にいたのは奇遇でしょうか。

越軍は、楚国に遠征中で空に近い隣国呉に攻め入りました。
しかしこのときは孫武の兵法が范レイを上回っており、うまくいきませんでした。
ただ、従属国であるはずの越が呉に背いて空き巣に近い行為に及んだ件は呉王にとっては遺恨となりました。
その後、当時の越王が死に、その後を息子の勾践が継ぎます。
この混乱の時期に呉王は先年の恨みを晴らすべく、越に出兵しますがあろうことか呉王はこの戦いで死んでしまいました。

呉王は死ぬ間際に息子に越国に対する復讐を誓わせて息絶えます。
息子の夫差は父の恨みを忘れないため、寝心地の悪い薪の上に寝起きしたといいます。これが臥薪
呉王夫差は越の国に攻め込み、滅亡寸前荷まで追い込みますが、すんでの所で越王勾践を許し夫差の飼っている馬の世話役(いわば奴隷)として一命を助けます。
その後、勾践の日ごろの態度を見て心服したと思い込み、越の国に彼を帰してしまうのですが勾践の態度は見せかけでした。
かれは自分の国に戻ると復讐を誓い、苦い肝を嘗めて呉王に仕えていた屈辱の日々をを思い出していました。これが嘗胆
呉王と越王二人の復讐を忘れない行為から、臥薪嘗胆、という言葉が生まれたんですね。

さて、呉王夫差には越の国から美女が差し出されました。
彼女の名は「西施」。そう、絶世の美女です。

台湾に行くと、檳榔(ビンロウ)の実を元にした噛みタバコのようなものがあります。パラオの人もよくやってますねえ。
街中に通りに向いている側はガラス張りのお店があり、麗しい女性が座っているだけの姿を見かけます。
檳榔の看板や、独特な虹色の扇形ネオンでそのタバコのようなものを売っている店とわかるのですが、売り子はたいがい、この麗しい女性たちなんですね。
この女性のことを、台湾では「檳榔西施」(ビンランスース)と言います。

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(2010.12.18 檳榔のお店の看板@台湾  byFinePix F200EXR F9.0  ISO200 1/420)

 

彼女にメロメロになった呉王は越に対しての警戒を全く無くします。
彼は後顧の憂いがないとして、北の中原への野望を見せます。
この間、越は名臣文種と范レイの活躍もあり、せっせと国力増強に励みます。
また、この頃には孫武は呉軍を離れて隠遁生活を送っており、伍子胥は越に対する警戒を怠らないように呉王に諫言するのですが、これを疎ましく思う呉王夫差との関係がうまくいかず、ついには呉王から自害するように言い渡されます。伍子胥は悲憤のうちに自害して果てました。
これは范レイが差し向けた離間策だったのです。

やがて、機が熟したとみた越軍は呉を攻め、ついに呉の都を占領します。
呉王夫差は伍子胥に合わせる顔がない、といって自害します。これをもって一度は大国楚を滅亡寸前まで追い込んだ呉は滅んでしまうのです。

さて、野望を遂げた越王勾践。
彼の容姿は
「長頸烏喙」
つまり、首が長く、唇が黒い、と表現されています。
この相は、艱難を共にすることは出来ても、安楽は共有できない、と言われているとして、范レイは越の臣を辞しどこかへと去っていきます。
またこの言葉を友人の文種に書き送り、飛鳥尽きて良弓はしまわれ、狡兎死して走狗煮らる、の例えありとして、早く越から逃げるよう進めますが、結局文種は讒言を信じた勾践に死を命じられ自決します。

さて、范レイ。
越を去ったあと海路を経て斉の国にいきます。
斉は太公望呂尚の建てた国で、いまの山東半島が領地になります。
彼はここで名前を変え、師匠の計然の理論を下に貨殖の道(商売)を歩むことを決意します。
短期間のうちにかれは巨万の富を得た、と史書は記しています。

その後、斉の国の宮廷では彼がその昔越の名臣范レイであることに気がつき、宰相として宮廷に招くことにしますが范レイはこの招きを断り、それまでに築いた富を使用人たちにすべて分け与えて斉の国を脱します。
彼が次に移った土地は斉の隣国宋の陶、と言う街でした。
その地で陶朱と名乗り、再び商売を始め瞬く間に巨万の富を築き、街の人々から陶朱公と呼ばれ尊敬を集めたと言います。
陶朱公こと范レイはこの地でなくなったそうです。

ちなみに自分は小学生の頃に海音寺潮五郎の「孫子」を読んだ時に、范レイに出会いました。正直出来すぎ君のような范レイには好感が持てず、孫武・孫子に強く惹かれる一方で、一途で有能で恨み一辺倒ではなく政治的バランスが取れているものの、屍に鞭打つといった心に「狂」を持った伍子胥にもひどく共感した覚えがあります。

それは今でも同じかな。

子供の頃の印象ってのは怖いなー。

 

 

 

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2013/08/11

キーワードは「三星堆」

九州国立博物館の「ぶろぐるぽ」にエントリーのため、再編集しました。(2013.8.28)

130713_kyusyu_musium_01
(2013.7.13 九州国立博物館 byNEX5N SIGMA 30mm F2.8 EX DN F2.8 ISO100 1/800)

7月某日、毎度のことながら大宰府に行ってきました。
会社の人から、国立博物館で中国の歴史ものを展示しているらしい、と言う情報を入手。
調べてみると、古代(夏の時代)から中世(宋の時代)に至る、世界的にも最上級の遺物を展示するイベントが行われていました。
・・・しばらくパソコンが無かったので、チェックしてませんでした・・・orz

さて、行って見てきました。
一言で言えば、
「すごい」
です。
どれもこれもすごいんですが、なかでも自分にとってインパクトがあったのは古代の遺物でした。

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中国の歴史のスタートは、「殷」王朝(正確には「商」王朝)から始まり、その後「周」、春秋戦国を経て、「秦」、「漢」と続きます。
殷(商)王朝が実在したことは、殷墟(殷(商)王朝の都とされる)から発掘された遺物から、ほぼ確定しています。
このため、中国最古の王朝は「殷(商)」と考えられていました。
それ以前の王朝については、歴史書に載っているだけで空想伝説の物ではないか、と言われてきました。

史書でしか登場しない、(殷(商)王朝以前の)「夏」(日本語では「か」。中国語では「シャァ↓」)王朝があったのかどうか。
ただの伝説ではないか。
まぁ、ギリシャ神話におけるトロイアはあくまでお話の上での都市で実在はしない、と思われていたのと似ています。

その伝説がトロイア同様に現実味を帯び始めたのは、実はごく最近の事です。
中国での「二里頭遺跡」の発掘は世界に衝撃を与えたと言ってもいいでしょう。
現在、「二里頭遺跡」はこの「夏」王朝の都だったのではないかという説が大きな勢力を持っています。
ちなみに、「二里頭遺跡」で発掘された貴重な遺物の多くも、大宰府国博で展示されています。
必見ナリヨ。

さて、ここまでは自分も知っていました。
今回の展示で自分にとって強烈なインパクトだったのは「三星堆遺跡」の遺物の数々でした。

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(一級文物 「突目仮面」 青銅 前13-前11世紀 1986年三星堆遺跡出土) 

世界では古代4大文明と呼び、中国黄河流域の黄河文明、インド・インダス川沿いのインダス文明、イラク・チグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミア文明、エジプト・ナイル川沿いのエジプト文明の四つが最古の文明と信じられていました。
これに加えていいかどうかわかりませんが、中国・長江文明が今の四川省あたりにあったようなのです。
長江文明は黄河文明と明確に異なった出自の異なる文明であったことが、展示の遺物でわかります。
もちろん、その後の歴史の中で二つの文明が出会い互いに影響しながら融合していくさまは、中東のチグリス・ユーフラテス文明とエジプト文明の影響を知っていれば理解できる範囲の出来事です。

長江文明の遺物は非常にシュールでかっこいいです。巨大な突目仮面は、その後中原には伝わらなかったんでしょうか。
中原に伝われば、いずれは日本にも伝わったかもしれないのに。残念。
黄河文明にはなかった多量の金装飾製品もあり、非常に興味深いです。

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(一級文物 「金製仮面」 金 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)

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(一級文物 「人形器」 青銅 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)

展示の副題には「3000年の美の興亡」とありますが、夏や古蜀の時代が4000年前ともいわれているので「4000年の美の興亡」の間違いです。
中国4千年の歴史を侮ってもらっちゃあ困る。

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第二章は春秋戦国時代。

楚と斉、魯、にフィーチャーしています。

楚に関しては、以前ここでも伍子胥のことを書いています。

楚や楚の南の呉や越は中原(黄河付近)と違う文明からの出自があったと思われます。
この長江以南の国々の君主が春秋の頃から「王」を名乗っていたことは、その証拠と言えましょう。中原の国々は「周」から封じられた地方領主なので、~候とか、~公という呼び方をします。(晋の文公など)
これは上に書いた、黄河文明とは独立した長江文明のアイデンティティの強さを物語るものといえます。

今回の展示物にある、「羽人」(ウジン、ユーレン)といった独特な観念から生まれたと思われる造形の遺物を見ても、そのことを強く感じさせます。

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(一級文物 「羽人」 木・漆 前4世紀 2000年荊州市天星観出土)

斉は太公望呂尚の開いた国。彼自身が羌族出身だったからかどうなのか、斉は出自(出身民族)を問わずに実力主義的な多民族国家だった、というのが私のイメージ。
山東半島の付近の土地はそれほど肥沃でなく生産性も低かったけど、塩と鉄が取れた。
工業系と商業系の発展が斉をその後の強国に育てたといっていいでしょう。
そんな国の芸術は事実をありのままに見て表現する、というのが流儀になったのかどうか。
下の犠尊(青銅の容器。中にお酒などを入れて神に供える)の肉感にはそんな風な印象がありました。

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(一級文物 「犠尊」 青銅、金銀緑松石等象嵌 前4-前3世紀 1982年山東省臨淄区商王村出土)

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(一級文物 「猿形帯鉤」 銀、鍍金、貼金、ガラス象嵌 前3世紀 1978年山東省曲阜市魯国故城遺跡出土)

博物館には、この帯鉤(タイコウ、帯止め。今のバックルのようなもの)の模型がおいてあり、春秋戦国時代の人のベルトを締める感じを体感できます。

このほか、

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35_4

43_2

46

というような章立てで展示されています。

写真は

「九州国立博物館」

ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしました。
(*転載とかしないでね。)

九州国立博物館で2013年9月16日までやっています。
ぜひ、お見逃しなく。

(2013.8.28 追記・再編集)

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