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2013/08/11

キーワードは「三星堆」

九州国立博物館の「ぶろぐるぽ」にエントリーのため、再編集しました。(2013.8.28)

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(2013.7.13 九州国立博物館 byNEX5N SIGMA 30mm F2.8 EX DN F2.8 ISO100 1/800)

7月某日、毎度のことながら大宰府に行ってきました。
会社の人から、国立博物館で中国の歴史ものを展示しているらしい、と言う情報を入手。
調べてみると、古代(夏の時代)から中世(宋の時代)に至る、世界的にも最上級の遺物を展示するイベントが行われていました。
・・・しばらくパソコンが無かったので、チェックしてませんでした・・・orz

さて、行って見てきました。
一言で言えば、
「すごい」
です。
どれもこれもすごいんですが、なかでも自分にとってインパクトがあったのは古代の遺物でした。

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中国の歴史のスタートは、「殷」王朝(正確には「商」王朝)から始まり、その後「周」、春秋戦国を経て、「秦」、「漢」と続きます。
殷(商)王朝が実在したことは、殷墟(殷(商)王朝の都とされる)から発掘された遺物から、ほぼ確定しています。
このため、中国最古の王朝は「殷(商)」と考えられていました。
それ以前の王朝については、歴史書に載っているだけで空想伝説の物ではないか、と言われてきました。

史書でしか登場しない、(殷(商)王朝以前の)「夏」(日本語では「か」。中国語では「シャァ↓」)王朝があったのかどうか。
ただの伝説ではないか。
まぁ、ギリシャ神話におけるトロイアはあくまでお話の上での都市で実在はしない、と思われていたのと似ています。

その伝説がトロイア同様に現実味を帯び始めたのは、実はごく最近の事です。
中国での「二里頭遺跡」の発掘は世界に衝撃を与えたと言ってもいいでしょう。
現在、「二里頭遺跡」はこの「夏」王朝の都だったのではないかという説が大きな勢力を持っています。
ちなみに、「二里頭遺跡」で発掘された貴重な遺物の多くも、大宰府国博で展示されています。
必見ナリヨ。

さて、ここまでは自分も知っていました。
今回の展示で自分にとって強烈なインパクトだったのは「三星堆遺跡」の遺物の数々でした。

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(一級文物 「突目仮面」 青銅 前13-前11世紀 1986年三星堆遺跡出土) 

世界では古代4大文明と呼び、中国黄河流域の黄河文明、インド・インダス川沿いのインダス文明、イラク・チグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミア文明、エジプト・ナイル川沿いのエジプト文明の四つが最古の文明と信じられていました。
これに加えていいかどうかわかりませんが、中国・長江文明が今の四川省あたりにあったようなのです。
長江文明は黄河文明と明確に異なった出自の異なる文明であったことが、展示の遺物でわかります。
もちろん、その後の歴史の中で二つの文明が出会い互いに影響しながら融合していくさまは、中東のチグリス・ユーフラテス文明とエジプト文明の影響を知っていれば理解できる範囲の出来事です。

長江文明の遺物は非常にシュールでかっこいいです。巨大な突目仮面は、その後中原には伝わらなかったんでしょうか。
中原に伝われば、いずれは日本にも伝わったかもしれないのに。残念。
黄河文明にはなかった多量の金装飾製品もあり、非常に興味深いです。

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(一級文物 「金製仮面」 金 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)

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(一級文物 「人形器」 青銅 前12-前10世紀 2001年金沙遺跡出土)

展示の副題には「3000年の美の興亡」とありますが、夏や古蜀の時代が4000年前ともいわれているので「4000年の美の興亡」の間違いです。
中国4千年の歴史を侮ってもらっちゃあ困る。

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第二章は春秋戦国時代。

楚と斉、魯、にフィーチャーしています。

楚に関しては、以前ここでも伍子胥のことを書いています。

楚や楚の南の呉や越は中原(黄河付近)と違う文明からの出自があったと思われます。
この長江以南の国々の君主が春秋の頃から「王」を名乗っていたことは、その証拠と言えましょう。中原の国々は「周」から封じられた地方領主なので、~候とか、~公という呼び方をします。(晋の文公など)
これは上に書いた、黄河文明とは独立した長江文明のアイデンティティの強さを物語るものといえます。

今回の展示物にある、「羽人」(ウジン、ユーレン)といった独特な観念から生まれたと思われる造形の遺物を見ても、そのことを強く感じさせます。

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(一級文物 「羽人」 木・漆 前4世紀 2000年荊州市天星観出土)

斉は太公望呂尚の開いた国。彼自身が羌族出身だったからかどうなのか、斉は出自(出身民族)を問わずに実力主義的な多民族国家だった、というのが私のイメージ。
山東半島の付近の土地はそれほど肥沃でなく生産性も低かったけど、塩と鉄が取れた。
工業系と商業系の発展が斉をその後の強国に育てたといっていいでしょう。
そんな国の芸術は事実をありのままに見て表現する、というのが流儀になったのかどうか。
下の犠尊(青銅の容器。中にお酒などを入れて神に供える)の肉感にはそんな風な印象がありました。

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(一級文物 「犠尊」 青銅、金銀緑松石等象嵌 前4-前3世紀 1982年山東省臨淄区商王村出土)

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(一級文物 「猿形帯鉤」 銀、鍍金、貼金、ガラス象嵌 前3世紀 1978年山東省曲阜市魯国故城遺跡出土)

博物館には、この帯鉤(タイコウ、帯止め。今のバックルのようなもの)の模型がおいてあり、春秋戦国時代の人のベルトを締める感じを体感できます。

このほか、

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というような章立てで展示されています。

写真は

「九州国立博物館」

ご覧のスポンサーからの提供でお送りいたしました。
(*転載とかしないでね。)

九州国立博物館で2013年9月16日までやっています。
ぜひ、お見逃しなく。

(2013.8.28 追記・再編集)

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