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2008/12/04

吉野ヶ里見聞録

今朝は比較的暖かかったような・・・の熊本です。
日中の気温は20℃くらいだったみたいです。
夜、会社から帰るとき(8:00PM過ぎ)でもまだ16℃くらいでした。
でも暖かいのは今日まで。
明日の最高気温は10℃、土曜日は7℃、なんて表示になってます。
・・・・(絶句。もしくは無言の叫び)
週末天気が悪そうなので、今朝のうちに洗濯物を干しておきました。
来週末に車検なので、今週末タイヤを新品に履きかえる予定にしています。
天気が悪いのは勘弁して欲しいです。

 

すこしタイミングがずれてるかもしれませんが、タイの政変にはびっくりしました。
ちょっと前にうちの会社の人がリフレッシュ休暇でタイに行ってたんです。
前もって予定を聞いた時、「あそこちょっとやばくない?」と言ってみたものの彼曰く、「旅行会社は全くそんなこと言って無かったッス」と気にしてない風でした。(当時、デモ隊が首相府を占拠してた)
結果的にデモ隊が国際空港を襲う数週間前に旅行を終えて帰ってきてたので全然無事でしたけどね。
そのときの街の様子はまったく不穏な様子はなかった、と言ってました。
昨日のニュースで空港を占拠していたデモ隊の様子を聞いて、デモとは言えかなりゆるい雰囲気だったことが伺われたので、激しく怒声や銃弾が飛び交う、なんて想像とは違う様子でした。
結果的に、デモによって比較的穏便に政権を解体した、というのは「微笑みの国」と呼ばれるタイの国らしい気もします。
ある程度想像が付いていたにもかかわらずこの時期にタイに行き、運良く?空港閉鎖にあって足止めを受けた人にとっては大変だったでしょうけど、なかなか得られない体験だと思うし、なにより比較的平和な感じだったのが何よりも良かったと思います。

タイの人が言ってました。
「目の前で民衆の力で政治が変わるところを見れて、ラッキーじゃない」
うんうん(苦笑

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さて、本題です。 

先週末、吉野ヶ里遺跡に行ってきました。
高速を使って家から1時間30分くらいです。
往復240km、ガソリン3400円くらい。(燃費9k/L、ハイオク128円/L)
開園時間の9:00に合わせるよう家を出たら、ぴったりの時間に到着しました。

実は吉野ヶ里遺跡を訪れるのは2度目です。
初めて来たのは10年ほど前、1998年だったかな。
バイクで関東から九州へのツーリングをした時に立ち寄りました。

その当時と比べ、敷地は随分大きくなっている感じです。
復元(想像)されている構造物もでかいし数も多い。
特に祭殿とされている北内郭の建物は超巨大建造物、といっても良いかもしれない。
柱の跡は実際に見つかっているので広さは確定できます。
柱そのものは見つかっていないため、柱の太さ等から高さを想像するしかなく、中国で発掘されたものにあわせて復元しているらしいです。
今まで知っている弥生文化から考えるとこの2層の建物はかなり異質な感じがしました。

081204_kitanaikaku

(2008年11月29日 北内郭を望む by PowershotA710IS )

加えて今回初めてだったのが北の墳丘墓です。
この吉野ヶ里で「王」だった人々の墓といわれています。

081204_kita_funkyubo

(2008年11月29日 北墳丘墓内 by PowershotA710IS )


一旦、時代をさかのぼりましょう。
日本で「弥生」とよばれる時代が始まるのは今から2200~2500年前のことです。
隣の中国では周王朝末期、春秋戦国時代から秦の始皇帝が中原を制した頃になります。

今、吉野ヶ里と呼ぶ土地に人が住むようになったのもその前後のようです。
(古くは縄文時代から人の住んでいた気配があるようです)
海岸線は今よりもっと陸側にあり、吉野ヶ里から5kmくらいだったと説明を受けました。

「弥生」という時代が示すように、それまでと違うのは集団による稲作が始まったことです。
しかし基本的に歴史を見る上で線を引くのはよくありません。
ある時期を境にして急に稲作が始まるわけではありません。場所によっても時間差が生じます。
おそらく、吉野ヶ里でもそれ以前から稲は作られていたか、南から運ばれてきた稲が自生していたか、していたんでしょう。
吉野ヶ里の地が水利もよく、稲を栽培する上で好適地だったことから実りが多く、食べ物が余ればその分だけ人が増えていき、その集落はやがて大きくなります。

人が増え、稲作=富の量が増えると、持つものと持たざるものの差、つまり身分差というものが出来てくるようです。
やがて集落の人々をまとめる「大人」や「王」が生まれます。
吉野ヶ里の豊かな実りを聞いて周囲の集落からも人が集まるようになるでしょう。
労働力の増加は富の増加に繋がります。
しかし吉野ヶ里の人々がこれ以上人を増やしたくないと思った=富の占有がはじまった瞬間に、この集落は外敵を抱えることになります。
弥生時代がそれ以前の縄文時代と大きく異なる点として、富や勢力を巡って戦争があった点をあげることがあります。
一旦外敵に襲われる、もしくは狙われると、集落をまとめる王は外敵に備えて集落の周りの地面を掘って盛り土をし、さらに丸太などを立てて囲うようになります。

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(2008年11月29日 入り口付近にある逆茂木 by PowershotA710IS )

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(2008年11月29日 北内郭の環壕 by PowershotA710IS )

吉野ヶ里の環壕(集落)の成立を想像してみました。

上の写真で見ると分かるでしょうか、塀や柵の内側に壕が掘られているんですね。
城の「堀」とは違いますね。おまけに空堀だったらしく、環壕の「ごう」の字もさんずいではなく土偏になってます。

驚くのは、吉野ヶ里の都がこの後600年ほども続く大都市になったこと。

人間が後世にその経験を伝えて積み重ねる、というところに文明が生まれる前提があります。
外敵に襲われ、伝えるべき物が瓦礫や灰になり、伝える人がいなくなれば、育んできた文化は失われ断絶します。
滅ぼす側に文化を尊ぶ懐の広さがあれば別です。これは初期のローマがそうでした。
多くの場合侵略者スペインに滅ぼされたインカ文明のような例のほうがをみればよくわかります。

外敵の攻撃から長い期間かけて身を守る=平和が続くことはそれだけで凄いことなのです。
・・・ん~十二国記のような言い回しになってしまった。

ともかく吉野ヶ里は、「弥生」という時代を通じて同じ場所に大集落=都が存在し続けた、という一事だけでとんでもなく凄い場所なのでした。

結構広大な敷地ですが、主要な部分を見てまわるだけなら1時間、じっくり見ても3時間くらいでしょうか。
弥生時代を学びながら体験できる施設もあるので、丸一日どっぷり浸かる、と言うことも可能かもしれません。
しかし、結構がらがらです。拍子抜けしました。10年前は盛況で周辺道路は渋滞してた気がするんですが。
いいのか?吉野ヶ里。あんまり混んでてもいやだから、いいかも?
前にも書きましたが、発掘されたものについての説明や最新の研究・発掘結果などを伝える資料館的なものにもう少し力を入れて欲しいかなあ、と思います。
近所に(といっても車で高速使って3~40分かかる)国博があるのでそれが肩代わりする、というつもりなんでしょうかね。

さて、入園してすぐの南内郭に入ったら、城島さんというおじさんがいろいろと説明してくれました。
途中から二人(若者とおばさん)が加わりましたが、若者は京都、おばさんは北海道から来たとのこと。

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(2008年11月29日 南内郭予想図 by PowershotA710IS )

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(2008年11月29日 南内郭の物見やぐら by PowershotA710IS )

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(2008年11月29日 南内郭の王の住まい by PowershotA710IS )

結構遠くから人をひきつける魅力はあるんですねえ。
そういえば国営公園、なんて肩書きになってました。九州で国営公園というと、福岡の海ノ中道公園と吉野ヶ里の2箇所なのだそうです。

自分は9時から12時までいました。
そこから下道で自宅に帰ってプールでひと泳ぎ。

翌日、うちにほど近い菊水の「トンカラリン」を見てきました。
なぞのトンネル遺跡です。


・・・謎です(w
(つづく)

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