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2008/04/25

城の話のついでに

自分は史跡めぐりが好きなだけで、城好き、というほどのことはありません。
もっというと、きっかけは何でも良くて旅が好きなだけです。
それはともかく日本の城は幾つも見てきました。北は函館五稜郭、南は鹿児島鶴丸城まで。
残念ながら首里城など沖縄の城(ぐすく)はまだ訪れていません。いずれは見に行きたいと思っています。
1月にはペルーで「サクサイワマン」というクスコ郊外の砦も見てました。

自分の故郷、佐伯にも城跡があってよく遊びに行ってました。
城山、と呼んでいたその城は実戦にさらされることはなく、江戸期の支配の象徴としての役割であったのですが石垣などが残っていて、今思うとそれなりに防御面を考慮した縄張りだと思います。

戦国時代の佐伯の城は子供の頃は全く知らなかったのですが、栂牟礼城という城が在地の豪族佐伯氏によって築かれています。
先ほどの城山よりもやや内陸側に位置しています。

戦国末期の九州全体がまさに沸騰した時期に栂牟礼城は歴史の表舞台に現れます。
豊後のみならず九州北部を手中に収めていた大友宗麟の家臣であった佐伯氏の当主は佐伯宗天惟教。
彼は大友家凋落のきっかけとなった日向耳川における島津との戦いで真っ先に討ち死にを遂げます。
宗天の他、かれの子達も耳川にて討ち死に。
このため孫の惟定(9歳)が後を継ぎますが、おりしも南から島津軍が攻め上っており佐伯の小城は風前の灯です。

しかし佐伯惟定(17歳)、日向口から攻めてきた島津家久の大軍を栂牟礼城でしのぎきり、なんと撃退します。
島津側も豊後府内を攻撃する日取りが決まっていて佐伯の小城に長く関われない理由もありました。
別方面(肥後口)から攻め上ってきていた家久の兄、島津義弘も竹田・岡城で志賀親次(20歳)に足止めを受け府内攻撃に間に合いませんでした。

まさに没落寸前の大友家家中にはこの他、立花統虎ら若き天才が綺羅星のように現われています。
大友家改易の際に佐伯氏も領地を離れてその後の江戸時代、佐伯には毛利氏(森氏)が入部します。
今の佐伯の城はこの毛利時代のもの。

佐伯には、そういったわけで戦国期と江戸期の城があったのですが、子供の頃はお城や歴史よりも木の実や筍に夢中になってました。

え、今でも変わりよらんって?・・・まぁ、そんげぇ言うなや(苦笑

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