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2008/01/11

ペルー旅行記1(旅前)

1月10日(出発の10日前)
1月をタワンティンスウユでは「実りの月」ウチュイ・ポコイ、と呼ぶ。

実際の話、自分は南米の文化や地理はあまり詳しくありません。
パラオ出発まで二日前ですが、空いた時間があれば
「ペルー」、「リマ」、「クスコ」、「ナスカ」、「インカ」、「マチュピチュ」
などのキーワードでググって予習中です。
せいぜい昨年末に熊本県立美術館でナスカ展に行って仕入れたぐらいの知識しかありません。
ナスカ展に行った動機もそんなに深い思いがあったわけではありません。
ただ、ナスカ展で見た地上絵以外のナスカ文化に対する驚きや感動は以前書いたように大きいものでした。
今回の旅にペルーを選んだのも、このナスカ展があったからこそです。

そんな訳で、再来週に自分が行く旅行は、
「熱烈にペルー大好き」、「長年夢見たマチュピチュを是非見たい」、
という人が行く旅行ではありません。
今までにそういう行き当たりばったりな旅がなかったわけではありません。
どっちかというと、普段の散歩的ドライブはいつもそんな感じです。
でも日本からは地球の裏側ですし、そう簡単にいける場所じゃありません。
謙虚な気持ちで向かいたいと思っています。

いろいろ見ているうちに知ったんですが、ナスカの地上絵の研究に(世界まるごと、の)楠田枝里子女史がライフワークとして取り組んでいるのはちょっとした驚きでした。
楠田枝里子さんのHP↓
http://www.erikokusuta.com/

ここから下は、これまでに調べたアンデス文明の話です。
あちらこちらからの引用ばかりでつまんないので、興味のない人はここでさようなら。

世界4大文明、と言われます。
ナイル(エジプト)、チグリス・ユーフラテス(メソポタミア)、黄河、インダス。

ここに、アンデス文明が何故入らないのか、理解に苦しむところです。
四大文明の全てが上記の大河流域にありますから、地理的な共通点でもって比較しやすいことから、ひとくくりにされたかもしれません。

これらの文明の年代は紀元前4~5000年位前くらいからですが、アンデス文明の黎明も同時期です。

以前、ナスカ展について書いた折にその担い手は自分たちの祖先と同じくアジア系のモンゴロイド、と書きました。
モンゴロイドの元祖の直系というべき人々が、アンデスから太平洋を隔てた中国黄河流域で農耕を始め、土器などが見つかる年代と同じ頃、アンデス山脈の片隅でも農耕が始まります。(紀元前5000年前)

黄河流域で農耕の結果得られた作物は米、麦など穀類ですが、アンデス山脈ではインゲン豆などの豆類だったようです。
アンデス文明で土器が作られるようになるのは紀元前2000年前頃のようです。
農耕の始まりが同じ頃でも土器の製作年代が大きく隔てられているのは、決して文明の成長が遅かった、というわけではなさそうです。

他の文明と違う印象を受けるのは、土器の製作期以前に神殿などの石造建築が行われていた点です。
大河流域沿いではない、という地理的な条件が大きく作用しているのでしょうか。
(土器の材料となる粘土の入手にかかわると思われる)

今から2000年ほど前の紀元前後でペルー北部を中心に「モチェ文化」が成長します。
モチェとは遺跡が見つかった現有の地名です。
鐙型注口土器や黄金製の副葬品で知られているようです。
モチェを中心にいくつかの王国(政体)が興亡していたようです。
紀元600年ごろに衰退します。

同じ頃、ペルー南部海岸付近には「ナスカ文化」の成長が見られます。
ナスカの地上絵ばかりでなく、多彩色土器や脳外科技術、ミイラなどの文化の幅が非常に広いと感じたことは以前のブログで書いたとおりです。

これはアンデス文明、とくにプレ・インカ、と呼ばれるインカ帝国発生以前の文化のなかでは特筆に価するもの、と言われているようです。

ワリ、シカン、チムー、ティワナク
モチェの国々(もしくは統一された政体があったかも)やナスカの政体を衰えさせたのは山間部から興った「ワリ」という文化。
もしくは「ワリ」という政体といっていいかもしれないし、初めはいくつかに分かれていたものが、徐々に統一されていったのかもしれません。

「ワリ」の文化は紀元500年ごろの発生から徐々に広がり、周辺のモチェやナスカに影響を及ぼしながら、もしくはこれを滅ぼしながら、今のペルーの東部全域に及びます。紀元900年に衰退したと考えられています。
今でもペルーの山岳地域に見られる段々畑(アンデネス)はワリが広めたと考えられているようです。
ただし、ワリがモチェなどの周辺文化に影響を与えたかどうかについては議論のあるところです。

シカン
紀元1000年ごろから1375年までペルー北部海岸地域にシカン文化が栄えたとされています。
終わりの年がはっきりしているのはプレインカの歴史としては珍しい
黄金の仮面で有名。日本人が発見し調査が続けられていることでも有名?

チムーはワリの版図(という言葉が合っているかどうかは?)の内部で発生。紀元1000年ごろと見られています。
ワリより前のモチェやシカンの領域に重なります。それらの旧文化の遺民たちを吸い上げて拡大したのだろうと思われます。
そしてそれまでの政体よりも明確に「王国」という形で支配していたことが明らかになっています。
高度な灌漑システムに支えられた農業力で拡大を広げ、ペルー北部一帯はチムー王国の支配下になっています。
1470年ごろにインカに征服され滅亡していますが、その文化はインカに受け継がれたようです。

その南、ペルーとボリビア国境にあるチチカカ湖周辺、今のボリビア、チリ北部にあたる地域には「ティワナク」という文化もしくは政体の及ぼす領域がありました。
同名のティワナク、という名前の地名や遺跡がチチカカ湖沿岸部にありますがこの地が中心都市だったと考えられています。
ティワナクの発生は紀元前までさかのぼる、という説もあります。
ペルー北部のモチェと同時期にチチカカ湖周辺に興った、とされるものです。
北のモチェやワリが相次いで興亡するのに対し、南部のティワナク文化は長い間続きます。

インカ帝国・正式名は「タワンティン スウユ」
インカは「皇帝」の意。
今後このブログでは一般的な「インカ帝国」と言う言葉を使わず正式名称のほうで表示します。
1200年ごろにクスコで起こった王国は、1500年代にスペインのピサロによって滅ぼされてしまいます。
時期的には日本で言うと鎌倉幕府~戦国時代までにあたります。
アンデス全域を支配するにいたったのは滅亡直前の1400年代後半です。
チムーから受け継いだ金工芸や土器などの美術品や織物、高度な灌漑システムなど、 そしてティワナクから受け継いだ精緻な石造建築技術など、それまでのアンデス文明の集大成といっていい文化がこの帝国で栄えます。
基本的に征服した相手の文化(おそらく民族も)を破壊するよりも自らに取り入れることで拡大を広げていった、というプロセスは地中海のローマ帝国と似ています。
タワンティンスウユ独自の文化もあります。代表的なのがアンデス版飛脚のシステムです。
これを「チャスキ」と呼びます。

モチェ文化以前にも紀元前800年ごろからチャビン文化があったとされていたり、土器の使用が見られるチャビン以前にも石造建築文化の進んだ分化が存在しています。ナスカ文化発生以前に「パラカス文化」と呼ばれるものがあったとか、まだまだ発見されていない文化も多くあるのではないでしょうか。
また、上記に書いたようなこともいまだ論争のさなかで断定しきれない部分が多いのも現実です。
その最大の原因に、アンデス文明共通の「文字」がなかったこと、が挙げられます。

文字がなくても組織が成り立つ、というのは不思議なことです。
先に書いた「チャスキ」という飛脚はオウムのように言葉を伝えたのでしょうか?
紐の結び目によって数字をあらわす、「ケープ」と言うものがあるらしいのですが、ひょっとするとこれが言葉の代わりだったのではないか、と言う説もあるようです。

いろいろ調べても最後には「なぞ」と言う言葉が付きまといやすい、アンデス文明。
タワンティンスウユが滅んでから500年近い年月が流れていますが、いまだにアンデスの山奥では先住民(インディヘナ)がタワンティンスウユの風習を伝えていると言います。
しかしペルーなど南米の途上国の多くがそうである様に、彼らはその国では最多数の最下層の人々、と言う位置づけです。恵まれた環境で支配的な地位を占めるのはごくごく少数の白人層だそうです。
これは先年、そういった最下層の人々に支持されて大統領になったフジモリ元ペルー大統領の選挙戦のTV映像をみるとよく分かります。
そのことが、ペルーにはペルー国民と言う意識が薄い、もしくはそういった愛国心をもったひとが少ない、とまで言われるる原因になっているともいいます。
彼らが誇りにしているもの、それはタワンティンスウユの末裔ということ。
これから向かう場所は、そういったかれらの魂の宿る場所なのかもしれません。

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