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2007/12/21

嗚呼壮烈 岩屋城址(1)

先週末、日曜日に太宰府に散歩に行ってきました。

熊本からだと車で高速使って片道1時間弱くらいです。
通勤割引の時間帯で行けば、往復で2000円くらいなんですね。

太宰府に行ったのは今回が初めてです。
でも今回の目的は太宰府、というよりも岩屋城址でした。

岩屋城とは、
今から400年くらい前のこと、16世紀末の戦国時代に豊後国(今の大分県)に大友宗麟(そうりん)と言う武将がいました。
彼は北部九州を支配下に置き、そのうち筑前国(今の福岡県)の支配を配下の武将高橋鑑種(あきたね)に命じました。
高橋鑑種は太宰府の北の岩屋山に城を築きます。これが岩屋城です。
この城を有名にしたのはその後の戦です。

大友宗麟は日向国(今の宮崎県)の耳川の戦いで島津軍に大敗を喫し、以後大友家は衰退していきます。
筑前岩屋城は高橋鑑種に代わって高橋鎮種(紹運)(しげたね(じょううん))が守っていましたが、ここにも九州制圧の野望に燃えた島津の大軍が殺到します。

彼と彼の息子たちは筑前の代官として岩屋城(高橋紹運)、宝満城(次男の高橋統増(むねます))、立花城(長男で立花家を継いだ立花宗茂(むねしげ))にそれぞれいました。

規模も小さく、大軍を相手にするにはとても困難と思われた岩屋城に立てこもろうとする父に対し、次男や長男の立花宗茂はより堅固な立花城などに移ることを進言します。

しかし、父・高橋紹運はこれを拒否します。
おそらく息子たちのためにみずから捨石になる決意をしたことが伺えます。

当時、鎮種(紹運)の主筋の大友宗麟が島津の攻勢に耐え切れず、上方に自ら赴き、ときの天下人豊臣秀吉に助けを求めていました。秀吉は島津に攻勢を止めるように伝えますが島津が聞くはずもなく九州制圧を急ぎます。

島津家は秀吉が来る前に九州制圧を終えておけば、下関あたりで豊臣軍を食い止められる、という目論見があったのでしょう。
逆を返せば、岩屋城で半月、立花城で一~二ヶ月くらい持ちこたえれば、いずれ上方の兵(豊臣軍)がやってきて島津軍は退却する、という高橋紹運の読みがあったのではないでしょうか。

筑後方面から迫る島津忠長率いる島津軍5万に対し、岩屋城の高橋勢は763名。
島津軍は優勢な数を生かし交代で昼も夜も岩屋城を攻撃したと言います。
岩屋城は圧倒的な数の敵兵に対しわずかな兵で驚異的とも言える守りを見せました。
逆に島津軍は死傷者の数が日を追って増えていきました。
驚異的な、もしくは神がかり的な守り、といっても所詮は戦です。
血で血を洗う凄惨な、地獄絵図のようなむごたらしい激戦だったに違いありません。

そして14日間耐え続けた岩屋城もついに落城の日を迎えます。
城主高橋紹運以下、生き残っていたわずかな将兵は本丸に集まりみな自刃します。

763名の城兵全て死亡。
落城までに一人の脱落者もなかった、ということも高橋紹運を知る上では重要なことかもしれません。

島津軍も高橋勢を大きく上回る数千名の死傷者を出し苦い勝利となりました。
むしろ戦略的には敗北した、といっていいでしょう。
高橋紹運の考えていた通り、岩屋城攻略の遅れと、このあとに行われた立花山城攻略戦の失敗により島津家が当初目論んでいた九州制圧は大幅に遅れて達成できず、豊臣軍の進攻を許してしまうのです。

そんな血みどろの舞台となった岩屋城を、どうしてもこの目で見ておきたかったのです。

 

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