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2007/12/29

嗚呼壮烈 岩屋城址(2)

岩屋城跡へ行くには太宰府政庁跡から天満宮に向かう道の途中に、「県民の森」と書いた看板が左手に見えます。
看板のあるほうへ折れて山道を登って行くと左側に「高橋紹運墓」とかかれた石碑があり(これは墓ではありません)右手山側に岩屋城址の看板があります。
車で行くと駐車場はなく路肩に止めるしかありません。

道の右側が本丸、高橋紹運のお墓があるほうが二の丸になると思われます。
本丸に続く道は傾斜は急ですが階段があります。道路から上っていくとすぐに本丸へたどり着きます。

本丸はさして広くありません。テニスコート1~2面分くらいでしょうか。
登りつくとすぐ目の前に「嗚呼壮烈 岩屋城址」の石碑がみえます。
左手の小高い丘の上が岩屋山頂上になっていますが、櫓のあった場所(つまりは紹運が割腹した場所)、といわれているようです。

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本丸からの眺めはとてもよいです。
南側に目を向けると太宰府政庁や観音寺が眼下に見えます。
戦いのあった当時、あのあたりを埋め尽くさんばかりに「丸に十文字」の島津の旗がたなびいていたかと思うと感慨深いです。

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左手、東側には国立博物館が見えその向こうにそびえる山塊は宝満山です。
本来は宝満城が本城で岩屋城はその支城にあたりますが、その山容をみるとうなづけます。
しかし宝満城跡は現在整備されていないとのことです。

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当時、2週間ほどの戦いで両軍合わせて数千名の死者を出す激戦となった岩屋城址。
高橋紹運率いる守備側の全滅、という形で終止符をうちました。
結果、島津の九州制圧の野望は打ち砕かれ、豊臣秀吉がやってくることで九州における戦国時代の幕引きとなるわけです。
果たして、紹運が岩屋城で戦う必要性があったのか。
壮烈、というよりも凄惨なにおいのする岩屋城址を見ていてそんな疑問がわいてきました。

このようなとても守りやすいとは思えない、決して堅固とはいえない小さい城で勝つ見込みのない戦いを行ったことで、確かに紹運は後世に名を残しました。
敵側の島津忠長をして、惜しむべき、と賛辞を送られ、天下人秀吉をして「乱世の華」と賞賛されてもいます。
義において、彼は武士の一分を遂げたことは間違いありません。
しかし、彼を除く762名の命、相果てた数千の島津軍の命。
時代がそういう時代(命より名を惜しむ、もしくは現代以上に義を重んじた時代)であったことを踏まえても、自分が平和主義だからということを別にしても、この戦にはなんとも合点がいかない点が多いのです。

岩屋城の石や土くれ、一木一草にいたるまで血を浴びていないものはなかったでしょう。
今、それらが語りかけてくるものは、風の音ばかりです。

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